食べられる夢を見た

データ分析とデザインのあいだ

渋谷らくご 〜201808〜

今月も行ってきました渋谷らくご。しかも二回。お盆でだらだらしすぎるのもアレなので落語を観に行くという非生産的で最高なソリューション。夏休みはこうでなくちゃ。

 

というわけで写真と共に感想をまとめておくことにします。

 

■2018/8/12(日)14:00~16:00

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立川志ら乃師匠

最近のお気に入り志ら乃師匠。地味だけどすごい真打"地味シン"にも選ばれているがそんなに地味でもない気がする。いつぞや見た「時そば」は過去最高に笑った。

今回の演目は「替り目」。お酒が飲めないはずの志ら乃師匠が演じる酔っ払いの役はいつでも愛情と悪意のバランスが取れていて大好き。そういえば歯の治療は終わったのかな。

佐藤健さんと高橋一生さんが出ている映画に出た(はずだった)話からプロ意識の高い"ヒモ"話をまくらに、奥さんへの愛情を酔っ払いながら語る「替り目」。何度聞いても車屋のくだりと後半のくだりが頭の中で別の引き出しに入ってしまうが、通して良い話。志ら乃師匠はやっぱり古典が良いなあ。

 

古今亭志ん五師匠

久しぶりの志ん五師匠。多分真打昇進後初かな?

相変わらずゆったりと柔らかい雰囲気。あまり大きく笑わせるタイプではないものの、「猫の皿」は志ん五師匠にぴったりなお話。人が良さそうに見えて、腹の中には思っていることがあるおじいさんなんて絶妙。

クオーターに一度観に行って、四季折々のゆったりとした古典を聞きたい師匠。

 

柳家小八師匠

どうでるかと思ったら夏の定番「船徳」。この話はなんとなく喜多八師匠のイメージだったけど、小八師匠が見事に壊してくれました。ただ、何度聞いてもこの話「船徳」、どこが面白いポイントなのかわからない…。そういえば先月も大好きな三遊亭遊雀師匠がやっていたのですが…精進します…

下げは頑張りすぎた徳さんがおろろろろ …喜多八師匠が観てたら怒られそうで最高でした。笑

 

隅田川馬石師匠

馬石師匠は何と言ってもまくらが良いですよね。ゆるーくオチも別にない。でもそれが心地よい。何より話してる馬石師匠が楽しそうなのがかわいい。

演目は「妾馬」。めかうまって読むのかこれ。佐々木政談もそうですが、粋でおめでたい話は非常に良いですよね。笑いどころも多いがじわっと感動的な話。

長屋文化と侍文化、同じ時代なのにあそこまで常識が違うというのは面白いなあ、と思いつつ、今でもそうなのかな?こういう話を聞くと、日本史の勉強を改めてしたくなる。

 

■2018/8/14(火)20:00~22:00 しゃべっちゃいなよ

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 ▼柳家花飛さん

かっとびさんです。これでかっとびと読むのが小洒落てて良いですね。この場でネタおろしされた「律儀な男」も、タイトルとは反面"かっ飛んだ"展開。緊張してる雰囲気も含めて"しゃべっちゃいなよ"ならでは。この並びでトップバッターはすごく嫌だろうなあ。笑

 

立川談吉さん

下ネタに逃げるわけにはいかない、ならばオマージュ。オマージュと書いてルビはパクリ。オマージュ元はまさかのアン○ンマン、でも登場人物は「酒場放浪紀」よろしく居酒屋仕様。ペットのもろきゅうは犬っぽかったけど一体何の生物だったんでしょうか。

落語家さんてすごいですよね。完全に非現実なシチュエーションでも脳内に情景を描かせる。ただ今回はア○パンマンのオマージュという振りがあったせいで僕の脳内にはアニメ風の情景が。不思議なもんです。

 

林家きく麿師匠

真打ともなるとネタおろしでも堂々たるもんですね。どこまで作り込んでるのかわからないですが、あの設定でどこまででも膨らませることができるような感じでした。怖そうで怖くない話を披露する会、それで百物語やりたい。

2つ上の先輩はいくつになるまで偉大な存在なんでしょうか。50過ぎても2つ下の後輩には尊敬され続けたいものです。が、僕の場合既にあやうい。

 

▼笑福亭羽光さん

お尻からZARDの歌が流れる男の話から大きく離れ、メタ視点満載の一席。立川吉笑っぽい話、と自称する通り、確かにそんなニュアンスは感じました。笑

唐突に出てきたファンタジー要素もメタ視点への振りとして効いていて、でも!その後の展開が気になる!後日談をどこかで聞かせてもらえることを期待です。

多層構造になった回想シーンとか、インセプションっぽいですよね。個人的には今回の演目で一番好きでした。これも吉笑さんの呪いなのか。

 

林家彦いち師匠

きく麿師匠と同じく、どこまでカチッと用意してどこからがその場の発散なのかわからないもんですね…彦いち師匠レベルになるとプロットだけしっかりしてればなんとなくその場で話せちゃうもんなんじゃないでしょうか。

チビ玉という言葉、聞きなれなかったですが一般的なものなのか…?本筋とはずれますが芝居も観に行ってみたいなと思わされるような一席でした。常磐津もシゲフジくんで気になっていたし、チャレンジしてみようかな。

 

 

過去最長記事になってしまった。渋谷らくご、初心者にも優しい落語会を歌っていてとても良いのでぜひみなさまもどうぞ。

当事者と支援者

台風はともかく、最近はゲリラ豪雨が多いのがすごいですね。本当に東南アジアの気候みたい。お昼寝好きな僕は予定がないとずっとごろごろしてしまうのですが、そんな昼寝を起こすような雷の音でした。そのおかげで雨が降り出すより前に洗濯物を取り込むことができたのですが。雷の音って、圧倒的なパワーを感じますよね。本能的な恐怖。ライオンの鳴き声に近いのは、真似してるからなんでしょうか。

 

投稿が10記事を気づいたら越えていたので少し振り返ると、文体がバラバラですね。まぁでも、ブログを更新すること自体が目的な訳ではなく、その場その場でのスナップショットを残したいだけなので良いかなと思ってます。思考が流れがちなので、振り返ってまとめておくことは大事だなと改めて思いました。

 

時はだいぶ遡り、4月初回の授業では、LGBTをテーマとして扱いました。

 

fairs-fair.org

この団体の代表である、松岡宗嗣さんにお越しいただき話を聞いた形となりますが、初回からなんとまあ気づきの多いこと。ビジネスに凝り固まった僕の思考を解してくださった感覚は、今でも鮮烈に覚えています。

 

・誰もが当事者である

・白黒つけられるものなんて何もない、全てがグラデーション

の2点は今も考え方の中心に置くようにしています。

 

自分自身も何かのイシューではすでに当事者であったり、今後当事者となり得るなんてことは少し考えれば簡単に想像できると思うのですが、では、誰かのイシューに対し、支援者として関わることは可能なのでしょうか。

ALLY(アライ)という言葉がここで言うところの支援者に当てはまるわけですが、このALLYになるのも簡単じゃなく、いくつかのフェーズがあるようです。そもそも、そのイシューの存在を認識していない可能性すらありますからね。

 

ちょっと話は逸れますが、マーケティングの世界では、AIDMAとかAISASというフレームワークがありまして。消費者が何かを検討し購入するまでの一連の行動を表したものなのですが、

 

AIDMA

Attention:注目、商品やサービスについて知る
Interest:興味を持つ
Desire:欲しいという欲求
Memory:記憶
Action:購買行動 

■AISAS

Attention:注目、商品やサービスについて知る
Interest:興味を持つ
Search:検索
Action:購買行動
Shere:共有する

 

ferret-plus.com

 

という2種類が提唱されています(ferretさんいつも大変お世話になっております)。

電通さんが提唱していることもあるので"認知"が起点になっているような気もするのですが、消費者行動を非常に理解しやすいモデルです。

 

ALLYになるまでのフェーズについてもこのモデルのように整理することができそうな予感。

■AISAS

 Attention

 Interest

 Sympathy:共感

 Ally:支援

 Share

とか、いかがでしょうか。

 

理解する、とか、受け容れる、といった要素も考えたのですがなんだか偉そうだなと思って外してしまいました。これは東京ポッド許可局で言うところの"自意識が邪魔をしている"状態なのかもしれませんが、例えば自分が現状支援者となれそうなイシューがあったとき、難しいなと感じるのは"どう関わるのが支援なのか"という点に自信が持てないところですよね。

電車の中で席に座って移動中、お年寄りが乗り込んできた際譲ると断られたりするケースがある、みたいなのに近いかもしれません。僕は黙って席を立ち、特に譲ることもせず選択肢を提示することが多いのですが、これは支援かと言われるとそうでもないような気がします。支援の仕方によってはむしろ傷つけてしまうこともあるのではと思うと、これが悩ましい。

どこかでも書きましたが、笑いに変えることが、受容か批判かという話にも近いです。簡単ではないですが、ちゃんとコミュニケーションをとって、じっくり向き合わなくちゃいけないんでしょうね。何かと答えをすぐに求めがちな最近だからこそ、僕自身も自戒の意を込めて、書き残しておこうと思います。

メタ視点と楽屋ノリ

いま話題の、"カメラを止めるな"観てきました。流行に乗る、とか本来結構悔しいタイプなのですが、敬愛する伊集院光大先生が勧めていたとのことで、これは避けては通れない。

ネタバレ厳禁を皆さん呪文のように唱えてらっしゃるので気を付けますが、なんか観ててクリストファーノーランのメメントを想い出してました。とても面白かったです。

 

前にも名前出しましたが"波よ聞いてくれ"って漫画が大好きで。いつも"波よ"だったか"波を"だったか分からなくなるんですが。笑

ざっくりあらすじとしては、破天荒を地で行く女性主人公が深夜ラジオのパーソナリティを務めることになり、番組を巡っていろんな事件に巻き込まれる(事件を巻き起こす?)話です。

その中で主人公コダミナレが楽屋ノリが好き、という一節があります。今まであまり意識したことなかったですが、楽屋ノリ、自分も好きかもなと。

 

本来的に深夜ラジオはテレビの裏話やらスタッフいじりやらで、楽屋ノリがふんだんに盛り込まれています。この本音感がラジオの魅力の一つですよね。ましてや伊集院光さんや神田松之丞さんはそもそも後ろ盾がないと公言して、かなりいろんな方面にギリギリの発言が飛び出すのがたまらないです。

 

落語の世界でも高座とは違う裏話がまくらで飛び出すことがよくあります。いじり過ぎて他人の高座に乗り込んでくる師匠の流れ、だいすきです。

この前の渋谷らくごでも、時間を間違えて会場入りした立川志ら乃師匠がトップバッター立川こしら師匠の高座に乗り込み、さらになぜか客席横から三遊亭遊雀師匠がふらっと現れ、何をするでもなく端に座ってたお客さんと談笑して戻っていったのは最高でした。文章にするとより一層なにが起きたかわからねぇ。正直その場にいても何が何だかわからなかったですが。その後安定して圧倒的な笑いを稼ぐ桂三四郎さんに続けて出てきた古今亭文菊師匠がしっとりと、時には静かに笑いを取りながら古典落語の世界を作り上げたのはもはや芸術で、本当に驚きました。井戸の茶碗、だいすき。

 

すみません落語の話から気を取り直して…

 

楽屋ノリに加えて、落語では第四の壁を破るようなメタ視点での発言も度々登場します。これがうまいのが春風亭一之輔師匠とかでしょうか。柳家喬太郎師匠とかもですかね。

僕がこのメタ視点に魅力を感じるのは、観客ではなく登場人物になったような感覚があるからだと思っています。ある種、傍観者から当事者として巻き込まれている感覚です。その点では雷門小助六師匠の死神が最高だったんですが…これ以上落語の話してもアレなので割愛します。

ただ、この参加感がテレビには出しにくいラジオとか落語ならではの魅力なのではと思っています。ワークショップを企画するときに意識しなくてはいけないポイントですね。

 

当事者になることが、真剣になるコツであり、同時に楽しむコツでもあるんじゃないかなというお話でした。

サクラコスモスばらの花

EEL <Easy Earl Life> Productsという服のブランドが大好きで。といってもブランドで服を選ぶことが僕はほとんどないので、たくさんEELの服を持っているわけでもないのですが。

 

持っている服でとても好きなのが"オリオンコート"という厚手のコートで、着心地と見た目の品と可愛さが共存している感じが最高なのです。

そして何より"オリオンコート"というその名前。どことなく宮沢賢治感というか、ますむらひろし感というかそういうファンタジックな響きに溢れています。

 

少し前の話になりますが、たまたまEELの中の人とお会いする機会があり、少しだけお話しさせて頂いたことがあります。ほかの服にも名前があって、思いを込めて付けてるんです、とのこと。

 

EELには、代表的なコートとしてサクラコートとコスモスコートという二つがあります。その名の通り、春用のコートと秋用のコートです。

そもそも日本において春と秋は少し曖昧な季節で、僕の中では境界が薄くゆるりと過ぎていくことが多い、それでも快適で好きな人が多い季節のイメージです。その曖昧でグラデーション的な季節専用のコートって、それだけでとても贅沢なのですが、サクラとコスモス、二つに分けてあげることで、さらにその贅沢さが増しているのです。

気候としては似てるから同じコートを着回すことももちろん出来ます。が、そこを敢えて切り分けることで用途を絞り、贅沢なコートが出来上がります。なんだか春と秋それぞれの想い出もより大切に出来る気さえしてきます。

 

用途がたくさんあるものはもちろんとても便利ですし、必要とされる機会も多いかもしれません。でも、活躍するタイミングが少ないものは、それはそれでとても贅沢で、その瞬間の大切さを教えてくれるものとなり得るんじゃないかなと感じた経験でした。

 

信じられないくらい暑い日々が続いていますが、思い出す度にオリオンコートを着れる日が楽しみになります。冬を心待ちにしつつも、早く冬が来ないかなぁと思うこの暑い夏を大切に過ごしたいものです。

手の届く範囲

この前電車の中でアイスボックスに三ツ矢サイダー注いで食べてる人がいました。そんなスケベな食べ方があるのか。

それにしても暑い。福利厚生としてオフィスにアイス常備して欲しいくらいです。ワイシャツってもう少し通気性というか排熱効率上がらないもんですかね。

 

先日ZOZO Suitsが届いたので、早速着て360度回ってみました。新し物好きなのもそうですが、データ屋的には堪らない仕様。アプリの更新に合わせて再計測を求められるのですが、あれはアプリの仕様というより時系列データを集めてるんでしょうね。タテヨコナナメの体型データが大量に集まるだけで面白いことたくさん出来そうですもんね。

 

スーツとドレスシャツも注文してみましたが、あれだけカスタマイズ効いてかつ安いとなると、日用品としての洋服は全て置き換えても良いかなという気分になります。

 

今までアンコントローラブルだったところが、コントローラブルになるというのが一つのビジネスになっていると感じます。

iPhoneが発売された時、デフォルトでは最低限の機能しかなくカスタマイズで機能拡張出来る仕組みはこんなにも自由なのかと思いました。当時はパーソナライズという解釈をしてしまっていましたが、ユーザー側に選択肢があるという意味では、あれは"コントローラブルの範囲を拡げる"という言葉の方が近かったのかもしれません。

 

と言いつつ、過剰なコントローラブルを排除していくのもデザインの王道で。ビジネスの現場だと最近リリースされたTravel Nowとかがそれに当たるのかなと思っています。友人がリリースに関わっているらしく小耳に挟んだだけで使ったことはないので、機会があったら使ってみたいと思うサービスのひとつです。ある程度制限をかけることで選択にかけるコストを軽減するという。

 

いずれにせよ、コントローラブル/アンコントローラブルの軸は自分の中で持っておきたい切り口です。セルフマネジメントにも応用出来ますし。なにか悩みがあった際に、その対象は悩むべき対象なのか、悩んだ結果自分の行動で影響を及ぼせる範囲なのかというのはまさにコントローラブル/アンコントローラブルの話ですよね。

 

人と人との関係性においては、この軸に加えて"観測できるかできないか"という話も出てくるイメージです。

他人が何を考えているか、って基本的には行動ベースで観測するしかなく、かつ自分にはアンコントローラブルな感情もあったりするので、気にしてもしょうがないこともあります。逆に、自分の感情は良くも悪くも周りに観測出来る形で表現しないと伝わらないのが基本です。言ってくれなきゃわかんないよ!ってことですね。

 

コントローラブルな範囲を出来るだけ拡げた上で、選択しやすいように観測出来る形でオススメや選ぶ基準を表現する。体型測定した後に買えるZOZOのスーツはそんな仕組みが上手く出来ているなぁと感じました。エンタメ要素とか予測の不可能性が好きな僕は、結局後輩に選んでもらってしまったんですけどね。

 

混ぜるな危険

混ぜるな危険、って実際に混ぜたらどうなるのか気になっていた時期がありました。さすがにやってみたりはしなかったですが。

コレと混ぜたら危険、とかではなく、何でも混ぜたら危険というのが抽象的な警告文でとてもモヤモヤしていたのを覚えています。反応する対象がたくさんあるって話なんですかね。

 

ずっと前にやっていた白夜行というドラマで、(たしか)山田孝之演じる主人公が、(たしか)武田鉄矢演じる警官を殺そうとする下りがあって。トイレに罠を仕掛けるんですが、結局殺せないんですよね。殺すマインド100パーセントだったわけでもなく、逮捕されて過去の罪を清算したいという想いと葛藤しながら辿り着いたから完璧な罠に出来なかったんだったと思います。

突然なんの話をし始めたかというと、あの時に仕掛けていた罠が、たしかいくつかの薬品を混ぜて出来たものだったような気がして。さすがにあんな、一瞬吸っただけで視界がボヤけるほど強力なもの出来るのかは疑問でしたが、"混ぜるな危険"という文言を見るといつもあのシーンを思い出します。

 

ダイバーシティを考えていると、多数派を"普通"として、少数派をそこに混ぜ込むような考え方をしてしまうことがよくあります。一つ一つのイシューに対して、特別視せずに同じ価値観で接することが必要な時ももちろんあります。が、何でもかんでも同じルールや価値観で過ごすべきではないこともあると感じるようになりました。

 

名前的な要因かもしれませんが、特別支援学級とかはその辺りがすごく難しいようで。本人と親御さんの意思を尊重しながら、特別支援学級で過ごすか普通学級で過ごすか決める。例によって白黒つかず、答えなんてないテーマなのですが、モヤモヤのまま書き記すことにしています。

いま時点での僕の考えとしては、本人の選びうる選択肢を増やす、と、イシューごとに切り分けて選択できる仕組みを作る、というのが良いかなと思っています。

複数のイシューが存在する学校生活を一緒くたに語ろうとするとどうしてもアレやコレやしがらみやリスク、不安が出てきてしまうのかなと。

 

僕自身、何かと偏った視点からの"普通"にまとめることが真摯な姿勢だと勘違いしていたなと、今となっては思います。社会的に弱い立場にならざるを得なく、風俗で働くことになった女性が「似た状況の仲間がいる場所は安心する」と仰っているのが印象的で、このテーマを考えるきっかけになりました。

サードプレイスやナナメウエの存在も大事ですが、同じ感性や価値観、体験を共有できる存在も大事。究極的には他者を尊重することが自分を尊重することにつながるんだろうなと思っています。僕が誰のどんな存在になれるか、まだまだ未熟ですが、いろんな経験をしながら向き合っていこうと思います。

 

 

 

 

ダイバーシティの名の下に、あっためた弁当とアイス同じレジ袋に入れたらダメじゃないですか。って例えをどこかに入れようと思っていたのに、使い所を見失ってしまいました。どなたか使いたい方いらっしゃいましたらぜひ使ってあげてください。

落語とポリコレとはあちゅうのブログを読んで2

http://www.youtube.com/watch?v=enwu6gBhzkc  

 

良い動画に出会いました。ちょこちょこ微妙過ぎる発言がありますが。笑

田代まさしさんもこの間授業にお越しいただいて話を聴く機会がありました。当事者にしかわからない話がある、というのが一番印象的だったんですが、そのテーマでは当事者じゃない人がどう支援できるかはまた別の機会で書こうと思っています。

 

前回盛り込みきれなかった内容を。

 

前回のポイントだけまとめておくと、

・笑いに変える = 攻撃なのか受容なのかは難しい問題。重要なのは笑いに変えた人と変えられた人両方の思いと感じ方

・過去の発言や行動が不適切だったとしても、本人が反省している(それが観測出来る前提ですが)のであれば盲目的に否定するべきではない

 

色々と二極化し過ぎている&断面で判断されがちなので、もう少し時系列を考慮したグラデーションで考えるようにしたい、というのが僕の考えです。

 

最近いろんな人といろんな発言が批判の対象になってます。内容はともかく、二項対立的でまるで正解があるような言葉選びがされていると僕は結構警戒してしまいます。

タイトルにも入れていますが、ポリティカルコレクトネスって言葉も、まぁ使い所難しいなと。Wikipediaとか見ると、公正、公平、中立的なのはもちろん素敵だと思うんですが、正しい言葉遣いってなんだろうと。悩んでしまいます。

 

落語を頻繁に観に行くようになったのは、たまたま精神的にちょっと疲れていたタイミングでした。立川談志師匠が「落語は人の業を肯定するものである」旨の論を展開していますが、自分の本質的にダメな部分を受け容れるような懐の深さに、今考えるとあの時に魅力に取り憑かれたんだなぁと思っています。

 

業という言葉だと少し重すぎるようにも思うのですが、いろんな人がいて、いろんな出来ることがあって、いろんな出来ないことがある。喧嘩することこそあれど、決して排除しない、そんな世界観を僕は落語に感じることがあります。

 

初めて観に行った時には、入船亭小辰さんが「青菜」、春風亭昇々さんが「千両みかん」をやっていたのをよく覚えています。見栄や欲望に負けてしまった人が、周りを巻き込みながら話を転がしていく。そそっかしい人が生きることを面白くしていくことを知った瞬間でした。

 

その他にも好きな話はたくさんあります。

立川志ら乃師匠の「粗忽長屋」と「親子酒」は本当に大好きで、渋谷らくごポッドキャストで配信された時はテープが擦り切れるほど(廃れていく表現)聞き込みましたし、主観で生きることの強さは橘屋圓太郎師匠にも教えてもらいました。

 

有料部分まで読んだわけではないのですが、九龍ジョーさんが落語とポリコレについて話されているのを読みました。例えば目が見えない人や遊郭がテーマの話は、ポリコレととても微妙な関係にある、と。仰る通りだと思います。微妙な関係にあるのは事実だと思います、が、表現って何でもそういう側面を孕んだものだと思うんです。

 

東京ポッド許可局というラジオもよく聞いています。サンキュータツオさんがいつかの回で「キャッチコピーは基本的に違和感があるもの」と、昨今の自主規制ブームに対して発言されていたのが思い出されます。

ポリコレという言葉とエンタメ/アートのような自己表現の自由さはベクトルが全く違う方向を向いていて、ルールも価値観も違うのに、同じ軸に揃えるべき、と批判しているような違和感があります。もちろん何をやっても良いという事ではないですよ。最大限配慮しながら自分自身をどこまで真摯に表現できるか、そのバランスも含めて自己表現なんだと思っています。

 

ここに笑いに変えることが受容なのか、批判なのかの難しさも入ってきます。

噺家さんもプロとして自分の表現と配慮のバランスを取りながら試行錯誤していると思うので、そのモヤモヤを抜きにしてポリコレの名の下に論じることに違和感がとてもあったので、まとめてみました。結果、モヤモヤが加速してしまったような気がしますが、また思考が進んだら、改めて考えてみたいテーマです。