食べられる夢を見た

データ分析とデザインのあいだ

落語とポリコレとはあちゅうのブログを読んで2

http://www.youtube.com/watch?v=enwu6gBhzkc  

 

良い動画に出会いました。ちょこちょこ微妙過ぎる発言がありますが。笑

田代まさしさんもこの間授業にお越しいただいて話を聴く機会がありました。当事者にしかわからない話がある、というのが一番印象的だったんですが、そのテーマでは当事者じゃない人がどう支援できるかはまた別の機会で書こうと思っています。

 

前回盛り込みきれなかった内容を。

 

前回のポイントだけまとめておくと、

・笑いに変える = 攻撃なのか受容なのかは難しい問題。重要なのは笑いに変えた人と変えられた人両方の思いと感じ方

・過去の発言や行動が不適切だったとしても、本人が反省している(それが観測出来る前提ですが)のであれば盲目的に否定するべきではない

 

色々と二極化し過ぎている&断面で判断されがちなので、もう少し時系列を考慮したグラデーションで考えるようにしたい、というのが僕の考えです。

 

最近いろんな人といろんな発言が批判の対象になってます。内容はともかく、二項対立的でまるで正解があるような言葉選びがされていると僕は結構警戒してしまいます。

タイトルにも入れていますが、ポリティカルコレクトネスって言葉も、まぁ使い所難しいなと。Wikipediaとか見ると、公正、公平、中立的なのはもちろん素敵だと思うんですが、正しい言葉遣いってなんだろうと。悩んでしまいます。

 

落語を頻繁に観に行くようになったのは、たまたま精神的にちょっと疲れていたタイミングでした。立川談志師匠が「落語は人の業を肯定するものである」旨の論を展開していますが、自分の本質的にダメな部分を受け容れるような懐の深さに、今考えるとあの時に魅力に取り憑かれたんだなぁと思っています。

 

業という言葉だと少し重すぎるようにも思うのですが、いろんな人がいて、いろんな出来ることがあって、いろんな出来ないことがある。喧嘩することこそあれど、決して排除しない、そんな世界観を僕は落語に感じることがあります。

 

初めて観に行った時には、入船亭小辰さんが「青菜」、春風亭昇々さんが「千両みかん」をやっていたのをよく覚えています。見栄や欲望に負けてしまった人が、周りを巻き込みながら話を転がしていく。そそっかしい人が生きることを面白くしていくことを知った瞬間でした。

 

その他にも好きな話はたくさんあります。

立川志ら乃師匠の「粗忽長屋」と「親子酒」は本当に大好きで、渋谷らくごポッドキャストで配信された時はテープが擦り切れるほど(廃れていく表現)聞き込みましたし、主観で生きることの強さは橘屋圓太郎師匠にも教えてもらいました。

 

有料部分まで読んだわけではないのですが、九龍ジョーさんが落語とポリコレについて話されているのを読みました。例えば目が見えない人や遊郭がテーマの話は、ポリコレととても微妙な関係にある、と。仰る通りだと思います。微妙な関係にあるのは事実だと思います、が、表現って何でもそういう側面を孕んだものだと思うんです。

 

東京ポッド許可局というラジオもよく聞いています。サンキュータツオさんがいつかの回で「キャッチコピーは基本的に違和感があるもの」と、昨今の自主規制ブームに対して発言されていたのが思い出されます。

ポリコレという言葉とエンタメ/アートのような自己表現の自由さはベクトルが全く違う方向を向いていて、ルールも価値観も違うのに、同じ軸に揃えるべき、と批判しているような違和感があります。もちろん何をやっても良いという事ではないですよ。最大限配慮しながら自分自身をどこまで真摯に表現できるか、そのバランスも含めて自己表現なんだと思っています。

 

ここに笑いに変えることが受容なのか、批判なのかの難しさも入ってきます。

噺家さんもプロとして自分の表現と配慮のバランスを取りながら試行錯誤していると思うので、そのモヤモヤを抜きにしてポリコレの名の下に論じることに違和感がとてもあったので、まとめてみました。結果、モヤモヤが加速してしまったような気がしますが、また思考が進んだら、改めて考えてみたいテーマです。