食べられる夢を見た

データ分析とデザインのあいだ

落語とポリコレとはあちゅうのブログを読んで

長いタイトルになってしまった。

 

https://lineblog.me/ha_chu/archives/67299275.html

この投稿にブコメしたら、思いの外反応を頂いて驚きました。ありがとうございます。でも100文字しか書けない中で書いたことだとどうしても断片的な主張になってしまうので、改めてまとめてみようと思います。

 

前提として、僕は爆笑問題さん大好きで、はあちゅうさんのことはあまり存じ上げません。爆笑問題カーボーイはよく聞いてるので、太田光さんをちゃんと"オオタヒカリ"って読めますしキャラも少しはわかっているつもりです(お前なんかにわかってたまるか!って怒られそう笑)。が、はあちゅうさんについてはほとんどわからないです。名前を知っている程度でしかなく、この前のしみけんさんとの発信については勇気のある発信だなと、それこそ偏見ありきの感想かもしれませんが思っていたところでした。

なので、僕の考えについても、バイアスがかかってる可能性がありますし、かかってるとしたらこの前提によるものです。

 

ブコメもしましたが、「"笑いに変える"ことは攻撃と受容どちらなのか」ということを最近考えていました。扱うテーマの程度問題はあると思いますが、例えば「パートナーと別れた」ことを、その当事者ではなく周りのメンバーが笑いに変えた時、周りのメンバーにとっては大したことじゃないよ!っていう主張のつもりでも本人にとっては辛かったりもするじゃないですか。増してや普段の関係性による部分もあったり、本人が自分でネタにしてても周りに言われるのはつらいみたいな状況もあるので、余計に判断難しいですよね。

 

構造的にはいじりといじめの関係性に似通っていると僕は思っています。そのテーマにおける当事者が不快に思ったかどうかが一つのポイントで、度がすぎるとかも全部含めて。当事者がどう感じたかが重要じゃないかなと。

ただ、それが全てだとは思っていなくて、あくまで一つのポイント。ネタにした側が明確に攻撃的な意思を持ってたら論外ですし、逆に励ますつもりでネタにしたのであれば、その気持ちを否定することもしたくないと、僕は思います。

だから、前にも書いた内容と関連しますが、これもひとつの白黒つかない事案ですよね。

 

今回の件をより複雑にしているのは、はあちゅうさんの過去の発言ですよね。僕がブコメ内で"ブーメラン"と示したのはこの部分です。

ただ、100文字に入れ込めなかった、その先の想いの部分がもう少しあります。

 

問題となった過去の発言について、仮にはあちゅうさんが謝罪の旨を発信したことがあるのであれば、今回の件は今回の件で不快に思った旨をあの形で伝えたのは(ツイートはともかく)大切なことだと僕は思います。

ただ、正直、発言が叩かれている(≒炎上している)様子しか見ていなかったので謝罪したかどうかは知らないのですが、誰かを明確に傷つけたであろう自分の過去の発言は棚に上げたうえで、自分は傷ついた旨だけを発信して叩かないでください、はさすがに無理があるだろう、と僕は思いました。

 

一度の過ちでなにもかも決まるのはおかしいと、僕は思います。真摯に反省し、ちゃんと示しているのであれば、わざわざ掘り返して叩くのは酷かなと。

逆に言うと印象としてはチャンスだとも思っていて、今回の件を受けて傷つく気持ちがわかりました、過去の発言をちゃんと反省します、とさえ言えれば、僕は良いんじゃないかなぁと思っています。

 

本当は落語の話もしようと思ってたんですが、長くなってしまったので、あのブコメが全てではないことを早く書いた方が良いように思うので、次回以降に回そうと思います。

長文、読んで頂いた方ありがとうございました。

 

サードプレイスとナナメウエ

大好きな漫画「波よ聞いてくれ」の新刊が出た。展開のカオスさと、寝る前に真っ暗な部屋で半分寝落ちながら読んだせいもあって内容がほとんど夢だったんじゃないかと疑ってる。あれは夢か。やったぁもっかい新鮮な気持ちで読める。

 

同時に、天国大魔境が始まって東京喰種が終わった。あとベアゲルターの新刊も出た。沙村先生大好き。

 

複数の作品を同時連載するのって、頭の中どうなってるんだろう。登場人物の性質こそ似通ってるものの、世界観あれだけ違ったら訳分からなくなりそう。

 

ということで、今回は自分の中に複数世界を持つことが素敵だと思う、という話をしようと思います。中途半端に上手いつなぎ。

 

アート×福祉をテーマに大学に行っているわけですが、なぜアートなのか。半期を通じてやっと見えてきたのが、アートの自由度で。

例えば政治やビジネスと表現はかなり切り離されたところにいて、評価へのルールも違う。これってすごい大切なことで。

 

大きく言うと、アートの世界では全員が価値観やルールが違うんですよ多分。ほとんど門外漢なのでとんちんかんなこと言ってるかもしれませんが、テーマや手法による流派はあれど、良いと感じるか悪いと感じるかに一貫した定義なんてないんだと思います。

また、アートは政治的な要素からも基本的には切り離されているので、メディアと違ってそういう動きに縛られ続けることもない。

 

だからこそ、サードプレイスとして、アジールの役割を果たせる可能性があるというのが、僕の理解している範囲でのいったんの結論です。

 

働き始めてから4年が経ち大学に通うことを決めましたが、家とも、会社とも全く違うルールや価値観で動いている世界に触れるのは、とても学ぶことがたくさんあるなと感じます。また、会社で多少うまくいかないことがあっても、心の拠り所になるわけです。こちらのルールに照らしたら、あんなミスは大したことないよな、と。もちろん反省はしなきゃいけないんですが。

 

世界の広さや多様な美しさに触れるために、ぜひとも、普段とは違う文化で進む時間を持つサードプレイスや、そういう価値観を提供してくれるナナメウエの人物がいると良いと思いますし、僕自身も、誰かのそんな存在になれるよう、世界を作れるよう、動いていくことが一つの夢です。

予測不可能性と言葉の持つ音楽性

ワークショップの企画をする授業がありまして。記憶にある範囲では小学校ぶりでしょうか、見知らぬ他人を巻き込んだ何かを企画するのは。

 

ワークショップは基本的に自由なもので良いと思うけど、出来るだけ参加のハードルを下げて、かつ満足度も高いものにしたい。チームメンバーと議論を重ねる中、大切そうな要素が自分の中で見えてきた。

 

その中のひとつに、予測不可能性というものがある。主に満足度を上げる方の要素かな?

参加してもらった方々が、自分でも想像していなかったフィードバックを得る。それは企画側の我々がお膳立てした部分だけではなく、相互にフィードバックしあった結果生まれた、いわば我々の"想定外"につながる。

 

たまに趣味で曲を作ったり、歌詞をかいたりしてるんですが、そこでもこの要素は重要な役割を担っているように思う。

 

割と僕は、歌詞先行であとからメロディをつけることが多いのだが、言葉はどうやら、もともと音楽性を孕んでいると感じる。

いつぞや、さだまさしが似たようなことを話していた。例えば「紙コップ」という言葉には跳ねたリズムが含まれている、と。目からウロコが落ちた。また、別の文脈ではSuperSonic Girlのナガヲカマミ女史が「英語の方がパーカッシヴな響きで歌える」と言っていたのも記憶にある。この2つのエピソードは強く私の心に残っている。

 

また、意味合いの部分でも言葉は連鎖反応を引き起こす。歌詞に紙コップが出演している時、その紙コップは空なのか、何かが注がれているのか。何かが注がれているのであればお茶なのか、オレンジジュースなのか、お酒なのか。オレンジジュースが注がれた紙コップには、可愛い絵が描いてある。子供達が自分の顔を描いたのかな?それだけで、お誕生日会が催されてるのかも、と我々には想像させる。ここまで来たらもうほとんど曲は出来たも同然。リズム、シチュエーションが決まり、あとは暗いか明るいか曲調を決めれば良いだけなのである。

 

このプロセスは、複数人でやるとより加速し、そしてより多くの"想定外"を引き起こす。だからバンドは楽しい。七面倒くさい予定調整や人間関係のマネジメントを認識しながらも、取り憑かれて離れられない要因である。

 

予測不可能性を前提として走り出すことで、スタート地点では見えていなかったゴールのその先に、我々を連れて行ってくれるのだ。

 

フィジカル(アナログ)

友人の結婚式に参列してきた。内容については僕がどうこう言うものではないが、生花の廃棄が忍びなくて、ほんの少しだけだがサルベージした。僕自身も少しだけその恩恵にあずかることができた。

 

そこで、造花を使うべき、という意見もあると思うが、僕はそう言いたいわけではない。やっぱり人工物と自然物には違う魅力があることくらい、僕にもわかっている。その議論を加速させると、いつかきっと壁が真っ白な会場に、リアルタイムでプロジェクションマッピングして雰囲気が変わり続ける結婚式が出来るはず。あれこれ結構面白いアイデアなのでは?

 

今回は、アナログの魅力について語らせてもらおうと思う。

 

会社に、フィルムカメラを使い写真を撮り、現像まで自分でやる先輩がいる。その先輩曰く、「アナログなものの方が、自分が何をした結果、何がどう変わるのかが理解しやすい」とのこと。確かに数値上でISO感度いじって写真を撮っても、結果はわかるが自分の意思がどういう形で反映されたのかはわかりにくい。なるほどたしかに。

 

授業では、当事者の方と対話している。もっと早くにこういう機会があれば価値観が多少なりとも変わっていたかも、とみんなが言う。教育の場に取り入れるべきだと。

それだったらこの対話の模様をインターネットで配信するのも良いんじゃないか?僕はそうは思わない。

 

フィジカルなコミュニケーションが、重要なんだと思う。効率は悪いがアナログに、リアルタイムでその場の空気を共有しないといけない。

ある意味逃げ場のなく、当事者の方が失礼な発言に一瞬ピリッとした表情一つも見逃さないからこそ、自分も当事者として覚悟を決めることが出来るのだ。

 

聴覚障害を持つ方と、旅行に行くことを約束した女性がいた。そういうことだと、僕は感動した。

 

フィジカルでアナログだからこそ、自分が動いたことが何につながってどういう結果を生むのかわかりやすい。責任の範囲が見えやすいから、思い通りにいかず、面白いのである。

 

何もしないという決断ですら、アナログには多大な負荷がかかる。水に差さねば花はかれ、ケアをしなければ革は乾きひび割れる。逃げようのない、自分の決断の結果でしかない。

良くも悪くも、デジタルは経年変化に強い。強いて言うなら、ハードディスクの劣化でデータが消えるとかだろう。「トラブルはまず物理層を疑え」という先輩の言葉を思い出す。

 

決断の、行動の結果であるアナログなものの変化は、それだけで愛おしいと思いませんかね。ある種思い通りで、ある種予想外。

だから僕は、革小物やドライフラワーなんてものに、どうしようもなく惹かれてしまうのでしょう。

 

あぁまた書きたいテーマが出てきた。予測不可能性の魅力。次回以降に書こう。

 

 

理解に時間がかかることとわからないからつまらない

PUBGというゲームにハマっている。

戦場をテーマにしたバトルロイヤルゲームで、テーマ的には優しい世界みたいなものとは真逆なものの、現実とは切り離された認識で楽しんでいる。

 

キャラがレベルアップして強くなることもなければ、初期装備で強い武器を持てるような課金システムも(多分)ない。これがまぁ難易度が絶妙で、調子が良ければアイテム収集も索敵も狙撃もバシバシ決まりランク上位に食い込むことができるが、運が悪いと開始数秒で倒されてしまうこともある。

 

最近は新しいゲームをあんまりやってなかったのだが、少し前にやっていたスマホゲームとかだと、序盤の認知・学習コストを徹底的に減らそうとするイメージ。まずは定着を目的としているからだと思っていたが、PUBGはチュートリアルこそあるものの、序盤の放り出され方がすごい。自由度が高いのもあって、どう動くのが正解なのかほぼわからない。笑

そこから、上手い人の動画とか見て、自分なりに試行錯誤して、少しずつ強くなっていく。でもすぐ負ける時がある。勝てる時もある。

理解に時間がかかることほど、理解できてきた時のハマり方が凄まじい。

 

唐突だが、落語にもここ数年ハマっていて。

落語の好きなところとかハマった経緯とかはまた改めてまとめてみようと思うが、落語も理解するコストが高いことがある。

 

新作落語はともかく、古典だと江戸文化が前提になっているし、何より独りの演者が一枚の座布団の上でほぼ小道具も使わず話すので、想像で補完する量が多い多い。

僕がよく行く渋谷らくごでは、4人×30分で2時間、集中しているとめちゃくちゃ疲れる。が、その分良さが後からじんわり滲み出てきて時間差で心を満たすのである。

同じ噺を別の演者がやって、1度目には理解しきれなかった別の魅力を発見する幸せすらある。こんなにスルメな体験、他にどれだけあるでしょう。

 

何が言いたいかというと、理解できないからといってすぐに面白くないと見切りをつけるのではなく、理解できないということをもっと楽しむのがオススメですよ、って話でした。

 

おあとがよろしいようで、今回はこの辺で。

出会うことがない

https://blog.tinect.jp/?p=52692

 

上の記事を読んで。コメントしたら初めてスターもらったので嬉しいです。

 

自己肯定感持つのって大変ですよね。全体として、自分自身とか、自分のやっていることを受け入れられているか、納得できてやれているかって話があるので。

 

自己受容・ありのままの自分を受け容れる、ってことなんですが、この前当事者の方と話していて、「"自分は耳が聞こえない"ということを受け容れるまでに時間がかかった」というようなことを仰っていて。すごく陳腐な例えになっちゃいますけど、自分は仕事を覚えるのが遅いとか、歯が痛いのを虫歯として受け止めるとか、いろんな大きさの自己受容をしながら人は過ごしていくしかない訳じゃないですか。

虫歯とかは歯磨き怠ったみたいな話があるのでアレですが、自責にもしきれない、突発的な事故やなんやらで状況が変わったことを受け容れるエネルギーって、ものすごいものがあると思うんですよ。だからといって全て他責やら環境のせいにして周りを攻撃して良いって話じゃないですよもちろん。

 

でも、自己受容っていろんな物事のスタートラインだと感じていて。まずは状況を受け容れた上で、周りに発信することを選んだり、当事者として向き合いルールを変えようとしたり、強みとして活かしたりしていくものかなと。

 

僕が学んでいるダイバーシティについての講義では、あまり普段意識することのないマイノリティの方とお話しする機会が設けられています。

授業で直接お話を伺ったり、対話したりすると、やっぱりどうにか力になってあげたいな、とか、気付かされることが多くあります。もっと早くに、例えば幼少期にこういった機会があればまた違った価値観で成長したり、そもそも日々過ごしている中であまり出会うことがない方もいるな、と思うわけです。

 

出会う機会がないのは、何故なのか。

出会っているのに気付いていない?興味を持つこと自体が失礼?そもそも赤の他人と関わることが少ない?当事者自身もアピールしていない?

原因はひとつじゃないでしょう。ただ、自己受容が出来ていないと、当事者もアピールが出来ず、社会とのあいだに壁を作ってしまう、というのが、この間の授業の学びでした。

 

あくまでも僕のスタンスですが、個人が悪い、と言うつもりはないです。制度的な意味も、文化的な意味も含めて、社会側の構造がそうさせている、と思っています。

 

こんなのは理想論ですが、そんなのわかってますが、誰だって自分が出来ないことにおいては課題の当事者で、出来ることにおいては誰かの支援者であるような、そんな社会になることを僕は楽しみにしています。

続自分のことが一番むずかしい

続、と書くといつも頭に浮かぶのは"続くだらない唄"。同年代だったら5人に1人は共感してくれるはず。バンプに憧れてギターを弾き歌うような可愛い自分はもういつのことやら。今だに精神性は成長してない。

 

さて、前回からの続きで、"デザインとマーケティングは本質的に同じ"という話から自己紹介を再開しようと思う。

 

そんなに引っ張るようなテーマでも無いものの、どちらも"人の課題解決を目的とする"点で共通していると思う。要するに、在り方のところで、目指すべき理想というポイントで一致していると、僕は考えている。

言葉が違うために区別してる方がいることも、一致せず補完し合ってるような領域もあるとは思うが、まぁ本質的にはだいたい同じだと僕は理解している。

 

マーケティングの仕事をしていると、言葉のイメージのせいか、単純に僕の巡り合った案件がそうなのかはわからないが、課題解決的なアプローチより、投資/費用対効果的なアプローチを追い求めた施策提案を求められることがある。

結果的に、分析結果が同じゴールに収束する可能性もあるが、ターゲットは「3〜40代男性!子供あり!」のような切り口ではなく、課題(またはジョブ)に視点を向けたマーケティングをしたいと、そう思うことも多い。

 

とはいえ、前回で述べたような、"人間をカテゴライズ"するような試み自体が悪である、と言うつもりも全くなく、合理性と利益率の追求それ自体が企業の課題解決(ひいては人の課題解決)につながることもあるとも思っている。

 

この辺が難しい。自己受容的な意味で。

 

マーケティングの理想と、自分の能力不足と、ちょっと忙しくなってくると折り合いがつかなくなってくる。自分で自分自身を受け入れること(いわゆる自己受容)が出来なくなってくる。

どうやら、僕にはハイブリッドな燃料が必要らしい。燃費も悪い。

課題解決という長い道のりを走るにあたり、マーケティングという燃料だけでは辿り着けないゴールもあると判断し、福祉という領域の道標とアート(デザイン)という、ビジネスとはルールも価値観も違う燃料を注ぎ足すことを決めた。それが、僕にとっての福祉×アートだったのである。

 

情けないが、福祉と名がついておきながら、自己受容のために、極めて利己的に選んだ道が今であり、いろんな社会課題を抱えるマイノリティの当事者と対話しながら、自分自身もモヤモヤを抱える当事者として、研究対象となっている。

 

そのモヤモヤの発散場所として、このブログを使おうと思っているので、奇跡的に見てくださった方をモヤモヤに巻き込んでしまうかもしれない。そんなモヤモヤの掃き溜めとして、白黒つけられないことそれこそが美しいと、声高に叫び続けたい。