食べられる夢を見た

データ分析とデザインのあいだ

予測不可能性と言葉の持つ音楽性

ワークショップの企画をする授業がありまして。記憶にある範囲では小学校ぶりでしょうか、見知らぬ他人を巻き込んだ何かを企画するのは。

 

ワークショップは基本的に自由なもので良いと思うけど、出来るだけ参加のハードルを下げて、かつ満足度も高いものにしたい。チームメンバーと議論を重ねる中、大切そうな要素が自分の中で見えてきた。

 

その中のひとつに、予測不可能性というものがある。主に満足度を上げる方の要素かな?

参加してもらった方々が、自分でも想像していなかったフィードバックを得る。それは企画側の我々がお膳立てした部分だけではなく、相互にフィードバックしあった結果生まれた、いわば我々の"想定外"につながる。

 

たまに趣味で曲を作ったり、歌詞をかいたりしてるんですが、そこでもこの要素は重要な役割を担っているように思う。

 

割と僕は、歌詞先行であとからメロディをつけることが多いのだが、言葉はどうやら、もともと音楽性を孕んでいると感じる。

いつぞや、さだまさしが似たようなことを話していた。例えば「紙コップ」という言葉には跳ねたリズムが含まれている、と。目からウロコが落ちた。また、別の文脈ではSuperSonic Girlのナガヲカマミ女史が「英語の方がパーカッシヴな響きで歌える」と言っていたのも記憶にある。この2つのエピソードは強く私の心に残っている。

 

また、意味合いの部分でも言葉は連鎖反応を引き起こす。歌詞に紙コップが出演している時、その紙コップは空なのか、何かが注がれているのか。何かが注がれているのであればお茶なのか、オレンジジュースなのか、お酒なのか。オレンジジュースが注がれた紙コップには、可愛い絵が描いてある。子供達が自分の顔を描いたのかな?それだけで、お誕生日会が催されてるのかも、と我々には想像させる。ここまで来たらもうほとんど曲は出来たも同然。リズム、シチュエーションが決まり、あとは暗いか明るいか曲調を決めれば良いだけなのである。

 

このプロセスは、複数人でやるとより加速し、そしてより多くの"想定外"を引き起こす。だからバンドは楽しい。七面倒くさい予定調整や人間関係のマネジメントを認識しながらも、取り憑かれて離れられない要因である。

 

予測不可能性を前提として走り出すことで、スタート地点では見えていなかったゴールのその先に、我々を連れて行ってくれるのだ。