食べられる夢を見た

データ分析とデザインのあいだ

続自分のことが一番むずかしい

続、と書くといつも頭に浮かぶのは"続くだらない唄"。同年代だったら5人に1人は共感してくれるはず。バンプに憧れてギターを弾き歌うような可愛い自分はもういつのことやら。今だに精神性は成長してない。

 

さて、前回からの続きで、"デザインとマーケティングは本質的に同じ"という話から自己紹介を再開しようと思う。

 

そんなに引っ張るようなテーマでも無いものの、どちらも"人の課題解決を目的とする"点で共通していると思う。要するに、在り方のところで、目指すべき理想というポイントで一致していると、僕は考えている。

言葉が違うために区別してる方がいることも、一致せず補完し合ってるような領域もあるとは思うが、まぁ本質的にはだいたい同じだと僕は理解している。

 

マーケティングの仕事をしていると、言葉のイメージのせいか、単純に僕の巡り合った案件がそうなのかはわからないが、課題解決的なアプローチより、投資/費用対効果的なアプローチを追い求めた施策提案を求められることがある。

結果的に、分析結果が同じゴールに収束する可能性もあるが、ターゲットは「3〜40代男性!子供あり!」のような切り口ではなく、課題(またはジョブ)に視点を向けたマーケティングをしたいと、そう思うことも多い。

 

とはいえ、前回で述べたような、"人間をカテゴライズ"するような試み自体が悪である、と言うつもりも全くなく、合理性と利益率の追求それ自体が企業の課題解決(ひいては人の課題解決)につながることもあるとも思っている。

 

この辺が難しい。自己受容的な意味で。

 

マーケティングの理想と、自分の能力不足と、ちょっと忙しくなってくると折り合いがつかなくなってくる。自分で自分自身を受け入れること(いわゆる自己受容)が出来なくなってくる。

どうやら、僕にはハイブリッドな燃料が必要らしい。燃費も悪い。

課題解決という長い道のりを走るにあたり、マーケティングという燃料だけでは辿り着けないゴールもあると判断し、福祉という領域の道標とアート(デザイン)という、ビジネスとはルールも価値観も違う燃料を注ぎ足すことを決めた。それが、僕にとっての福祉×アートだったのである。

 

情けないが、福祉と名がついておきながら、自己受容のために、極めて利己的に選んだ道が今であり、いろんな社会課題を抱えるマイノリティの当事者と対話しながら、自分自身もモヤモヤを抱える当事者として、研究対象となっている。

 

そのモヤモヤの発散場所として、このブログを使おうと思っているので、奇跡的に見てくださった方をモヤモヤに巻き込んでしまうかもしれない。そんなモヤモヤの掃き溜めとして、白黒つけられないことそれこそが美しいと、声高に叫び続けたい。